素直で一生懸命なものとして
こんにちは、マドレーヌです。
夕方見た駅の新聞の見出しに、日本にミサイル配備?のというあり得ないほどのお話が一面に載っていて、不安になった人々が買ったのか、その新聞社のものだけが群を抜いて売れていました。
また他の一面には、コロナ貯蓄不安のためか減らずとのお話。
先日御神業従事者のどなたかのお話で、今の若い人たちは、こうしてほしい、ああしてほしい、とお願いして神さまを利用する人が多いとのこと。
神さまを知っているようで知らない、というのは、
誰でもありますが、神さまに心を向けて、神さまを知ることで、神さまに自分も受け入れていただけるという基本姿勢が有るということです。
若者が不安なのは、誰でも経験することと思いますが、どんな時でも、お話をしてくださる完全なお方が一人一人のうちにおられて、そこに立ち返ってくるのを待っておられるのです。
体のこと、性のことも、不安から来たりします。
日本では性のことが、オープンに語られることは少ないので、家庭や親戚などの身内でそういう教育が無いと他でまともに知る機会はあまり無い人が多かったのかもしれません。
わたしはたまたま、従姉妹のお母さんのお家が産婦人科や小児科医を代々営んでいたり、他の従姉妹のお父さんが、ユーモラスな人で、教えるというのは子どもの作り方くらいしか教えられない、と言っていたり、四人のお子さんにいい男とはどんな男か?とか、教えていたりするのに、触れさせていただいていたおかげで、家庭では得れない勉強をさせられていました。
結婚後、家族で迎えたブラジル人の研修生は、男はこうでなくてはならない、とお父さんに厳しくしつけられていたようで、堅くその言い付けを守っている姿がほほえましく、また頼もしく、好感を持てました。
昔は隣近所、親戚の中で子どもを育てていたみたいで、わたしもよく両親が色々な人々とわたしたち子どもを会わせてくれましたが、そういう積み重ねの中で、お墓参りをしているおばあちゃんのいるうちは幸せそうだな、神社参りや周りの子どもたちの様子をよく見ているうちは、子宝に恵まれるな、などと潜在意識の中に刷り込まれていたようです。
大人になる直前に、それまで大抵のことはこなせていたのに、ひどく体調を崩して、社会に出る不安とかで(リーマンショックとかありましたから)、それまでできていたことができなくなった時期が有りました。
普通ならこうなるというのが、どうしてもできなくて、父からは、子ども生まれてしまえば、オムツやご飯でそんなこと言ってられなくなるよ、と言われたのが、一つの転機でした。
父の日頃の態度は、厳しくて、わたしは結婚すらできないと思われていると思っていたので、わたしをそんな存在として見ているところが有るのか!と大変驚いたと同時に希望も出てきたのです。
当時通っていた中学高校は、渋谷駅を通っていくお嬢さま学校で、信心深いのですが、一方で制服が、ごまかし効かないダサさなのです。
ほんとうに美しい、鏑木清方の絵画から出てきたような先輩なら、それも癒しになるのですが、わたしは女子校の中ではどちらかというと、男性的な役割を求められていたところがあって、正直女性として生きることを意識すると、葛藤が有りました。
でも、LGBTと言いますが、強くなれたり、愛を大きくする機会を得たり、その時は試練だったことも、今思えば生きてるだけで、丸儲け、と夫が言ってた通りだな、と思います。
妊娠中は子どもと言っても一人の生きた人をこの世にお腹の中で形づくって出すわけですから、どんなに、その子の幸せのためにしても、その子自身が持って生まれた運命とか宿命みたいなものを、親たちの努力で覆せないものが有ることを、最後は助産師の一言で悟ったこともありました。
妊娠中はほんとうに、理屈では言い尽くせないことが、霊的レベルでも起きてくるので、ママの変化を見ていくパパも大変だと思うけど、おばあちゃんとか助産師さんとか、宗教の先生とか、そういう人生の先輩となる人を身近に見付けたり、探したりして、離婚せず乗り越えてほしいものです。
離婚といっても、実は理由は簡単で、結婚前に、
夫婦生活をしてしまうことなのだそうです。
これは押し付けるのではありませんが、あまりにも無知なるために苦しんでいる人が世の中に多いから、私自身が神さまを通して知って、役に立ったことを、知らせたかったんです。
つまり、書いてあるのは、結婚前にそういう関係になってしまうと、どうもこの女はかかあにしたくない、と男が思うそうなんです。(聖言そのまま)
先日女性の割り切り方もすごいことを聞いて驚いたのですが、当事者は、はたで聞くよりずっと大変なことだと思うので。。。ほんとうに互いに大切にされてほしいです。
感情を神さまのものとしてお返しすること、五感を神さまのものとして一旦お返しすること、
そういうことを通して、日々新しく作り替えていただくこと、新しくされていくこと、それが今の御神業の大切なところのようです。
先日、教会にご案内させていただいたベトナムの女性と韓国の担当の職員さんにお話を一緒に聞いていたら、
湧いてくる想いをメシアのみ名にあって委ねることも、委ねることは、一見任せるみたいなことですけれど、
神さまのお気持ちのままに、用いてくださいという意味のようです。
今日もみ恵みを多くの人々と分かち合うことにお使いいただきましたことを、キリストと共にあるメシアのみ名にあって、感謝しています。アーメン、ハレルヤ。