こんにちは。
日々徒然草のように、退屈な想いの中から有意義なものを見いだそうと、
模索する試みの日々が続いています、この数ヶ月特に。
末っ子がテレビゲームや映画に夢中になると、話し相手や外遊びに連れていく手間も減り、心も体も休まるのですが、
こんなものでいいのかな?と時々物足りなさのような気持ちを感じています。
神さまのお言葉に求めたり、聖書のアプリで、お祈りに誘導してくれる機能を使い、気持ちをクリアにするよう、努めています。
マグダラのマリアさまは、普通の映画ではその人に絡めて不道徳といいますか、
人間のどうしょうもない、欲求や、解放感を描き出した映画も多く、
なるだけそういう影響を受けないように、
そういう見た目の美しさに惑わされて、不幸や悲劇の落とし穴にはまらないように、
気をつけています。
聖母マリアさまのような聖い、お心になりたくて、信仰に、励んでいるのです。
ところが、しょうもない親族に起きた問題を、自分のこととして委ねて、お導きしていく中で、神さまから、「思い通りにならないし、キリスト教の人をお導きできないかもしれないけど、その覚悟はあるか?」
と、尋ねられたのです。
「はい」とお返事したものの、最悪の事態も想定して、教会担当者に確認したりもしてやってきました。
今日は大切な祭典に行けなくなるという、体験を通して、改めて信仰深化を赦されています。
今日は午前中タイのフォーを作って、1時に夫とスーツを着て家で御参拝させていただきました。
夕方アラン・ドロンの映画や、最近の洋画を時々早送りしながら、観ていました。
それから仲良しの叔母と電話で話しして、過去の失敗、近況の悩みを笑い話にしながら、近い将来の設計を立てたり、亡くなった従姉妹の生前の様子を語り合ったりしました。
それと、女はお化粧ができるから、そんなことで、気分転換するのも、時々は有ってもいいな、と新しい発見もしました。
女同士の気楽な会話は、赦しをお受けするのに、ぴったりですね。
日中は、レインホールドのお祈りや、アッシジのフランシスコの平和の祈りを唱えているうちに、心の葛藤や悩みも天国に迎え入れられていました。
誕生の誕には、欺くとか、大げさい言うという意味があるそうですね!意外ですね。
愛の手に悩み苦しみを委ね、全人類を天国に迎え入れられていただく救いのみ業に共にお仕えさせていただきましょう🎵